悶絶!ちょちょぎれ涙丸

七山さんのいろいろかきのこし

なんとなしは独り言

私ってものがわかってきて

途端にふと 愛すべき人が誰なのかわかるっていう、そんな綺麗事を思ったりなんかして。

 

綺麗事は置いておいて、現実的な意味合いで、自分の王様は自分になりたくて、考えて、止まってまた考える、人生は考えることかもしれない。

 

私の15歳はとてもじゃないけど暗くって、

ひきこもって家の中で何かをえがこうとしてた。

 

だからか、占いなんて嫌いなはずなのに

なんでだったか自分の人生のテーマって文字に釘付けになったのは、私が思いのほか自分が大事だからだったと思う。

 

愛と孤独、って書かれてたのを今でも覚えている。

 

そんな正反対に見えそうな、実は表裏一体の?

未だにどういうものかもわからない、そんな永遠のテーマみたいな2つの文字。

 

愛情に恵まれないと思い込むこともあったし、自分は孤独だったんだって気づいた瞬間もあった。

 

はて、あれから10数年経ったけど、

今一度考えてみようかなって考える。

 

愛と孤独。

 

ひとりぼっちっていうのは寂しいと言う感情を知らないことだ、と思ったことがあった。

 

寂しい、って言う感情は、ふとんを抱きしめて抱きしめて抱きしめてもかき乱してくる波のようなもので、それ以上でもそれ以下でもない。

 

さみしいっていう感情が愛につながるなら、

あの時私は友愛をみたのかもしれない。

 

人を愛そうとしたら、一生かかってもきっと

母親にでもならない限りは無理かなって思う。

 

悲しいことに、私は四角い人間だから、

隣にいる人へは愛を注げないせいかくをしている。

 

無償の愛っていうのは信じてないし、

それは私の中には無いものだ。

 

友人にとって私がどうであれ、

私にとって友人が快楽でない時は、

心底不要だなとさえ思う。

 

そういう四角い私には、愛するべき人が一生のうちにふたりはいると、思っている。

 

これは義務であり、義務でないものなんだろう。

 

しがらみといって切り捨てるのは簡単かもしれない。

腐れ縁だと嘆いてもきっと変わらず愛するべき者、は一生ついてまわるだろう。

 

ただの他人でないもの、それは夫として選んだひと、それからなによりも産まれてから死ぬまでずっと永遠に同じ場所にいる選択を強いるのは、そうだ、自分自身なのだ。

 

夫は、他人である。

他人だから、わからないところも多くある。

わかってくれないことも多い。

それは嘆くことでもなければ、悲しむことでもないと、今なら言える。

 

悩み迷って分かりあおうなんて不細工な真似は

もう当に飽きた。

私にとって彼は、不思議な人だ。

彼にとって私は、不思議な人だろう。

それでいいのではないか、と思うようになった。

 

愛情を注ぐのに全理解など必要ではないだろう。

 

私たちは違う。

違うから惹かれあったし、違うから愛し合えるはずだ。

そう信じてる。

 

しかし、私が1番苦しい思いをして、1番愛情を注がなければならない者、自分自身とのことはまるきりそれに当てはまらないから困難である。

 

まず、なにがあるか。

私という精神は、私が1番分かっていない。

嫌な部位に目を瞑ろうとすれば、どこまでも許せるし、良いところに焦点を当てれば、とんでもなく大きくなった気になれる。

 

それが厄介で、私は私を大好きなのだが、

若い頃はそんな自分大好きな自分から逃れたくて、自分のことを大嫌いだった。

 

そんな自分の人生のテーマが、愛と孤独だったことに、(たかだかネット上の占いの言葉であったけれど)愕然としながらどこか恍惚としたのは、やはり心底の方では自分が大好きな人間だからだろうな、と振り返って思うことができる。

 

私は自分が好きな自分が嫌いだった。

自己愛が強い人間というのは、当時の私の中では滑稽で、強く排除しなければならない事実だった。

未だに、人に褒められる時は、いかに所在無さそうに笑うか、を全力で演じているから、過去形とばかりもいかないのだけど。

 

兎に角、私はそれで醜いナルシストな自分を排除したくて、自分を嫌いな自分、をするようになった。

要は、自傷行為ってやつだ。

体に傷をつけるとかは、私は痛いのがダメなのでやらなかったが、言葉の暴力に偏った自傷行為は何遍でもやった。

 

最上に使い勝手がよかった言葉が、

自分が生きていなければ。

自分が死ねば。

しんでしまえばいい。

 

やっぱり、生死に関する、存在に関する、そういう言葉がちょうど良かった。

 

その度に泣いているくせに、その度に傷つく癖に、それを繰り返したから、自分が嫌いな自分になれた気がして、やっぱり自分が嫌いな自分が好き、そういうへそ曲がりな若者だったと思う。

 

自傷行為ってのは、いわば、自分のしたくないことをする、ようなことかもしれない。

本当にしたいことや思いたいことから逃れて、真逆のことをすれば、人は傷つくってことを、ようやくわかってきた。

 

自分の中にある、本音には、忠実に素直に正直に心の中でくらいは、認めてあげなければ、自分が傷ついて、自分を見失って、大切なもの、たぶん、愛とかそういうのを注ぐ根本的なものが、すり減っていく、って思う。

 

孤独って、もしかしたらそういうことかなって。

 

自分を愛することができれば、それは孤独から救われるんじゃないかって。

 

全然、答えなんか出ないし、ただの思いつきでしか書いてないけれど、

自分を好きでいるんだったら、素直に好きでいればいいのかなあ、ってね。

 

なんか長くなったし締められないけど、

ともかく、そういう夜だったんじゃ...もう朝だけど...。